昭和56年7月21日 朝の御理解 【入力者:梶原佳行】

御神訓一、「幼少の時を忘れて親に不孝のこと」



 この日曜の日に、久富先生のところの十日の、九日祭を、遠方から来ております子供達が帰らなきゃならんちいうので、早く、丁度ここの壮年大会の時でした。ここから先生方が、えー、幹三郎がまいりましたでしょうか。そして、まぁ大変、本当に有り難い九日祭を、まぁ奉仕させて頂いたということでございますが。
 もう本当に行くたんべんに、行くたんべんちゅうか、会うたんべんに、もうその親父の信心ということが、お父さんの信心ということが、家内も、いわゆるあちらの婆さまも分かる。息子達もそれを、こう実感していっておるというような、んー、話でございましたが。中にも、どうでもこれだけあの、兄弟がおるから、一人ぐらい親父の跡を継がせて頂くというとがなからにゃいかんぞという話合いをしておると。
 出来れば、あの「ひろみち」君がお道の教師を、教職も頂いておることですし、なんなら、まぁ二番目の、あれは何ていうたか、あの、二番目の息子は何ちいうたか、ん、あっ、望君。望君かその「ひろみち」君かどっちか親父の跡を継がにゃ、といっておるということを聞きましてね、これは本当親父がおる間にいうとったらどんなに有り難かったじゃろう、喜んだことじゃろうかと思うてね。
 先生がなくなる前の日に申しておりましたが、本当にそれぞれ一人ひとりが一人で立ち行く、なら11人子供がおるそうですが、一人が亡くなりましてね、その皆がそれぞれ一本立ちの出来るところまでおかげを頂いておるというような事が、親父のやっぱ信心のおかげじゃったぞという風に、段々分かって来たという感じですね。
 そして、あのそのことを、なるかならんかは知らんけれども、そういう話し合いが出ておるということを聞いて、私も大変有り難いと思うと同時に、本当に親父がおる間にこういう話合いが出来たらどんなに喜んだことだろうかと思ったことでございます。
 ●⑦えー、誰でも別に、その親孝行はせんでんよいというような者はおりませんけれども、本気で親に喜んでもらおうというような人が少ないですね。だからせめて信心させて頂く者は、もういうならば御神誡というても、なら難しい戒律、ね、例えば仏教とか、キリスト今日でいう十戒とか五戒とかというとても人間の生身を持っとるもんじゃとてもやりぬけそう、出来そうにもないような、まぁいかめしいものではない。●
 例えば、ならこの1節を頂きましても、幼少の時を忘れて親に不孝のこととこう仰るが、本当にここまで手足を伸ばしてくれた親達、親に、本当に喜んでもらおう、安心してもらおうといったような、おかげを頂かなければならんなぁとこう思います。そこで、なら信心を頂いておる者は、ならそういうみ教えに触れて、はたして自分の親孝行というものをもう一遍思うて、はたしてうちの両親が、安心しておってくれたであろうか。自分の有り方に喜んでおってくれたであろうかと、一つ思うてみなきゃいけません。
 昨日私はある方のお取次をさせて頂いて、本当に何人も子供がおるとだから、こげん時には本当子供達がいうて、もうお父さん、お母さん心配しなさんなと、いうてくれるぐらいな奴が一人だんおらんじゃかのというて、まぁいうようなお取次させて頂いたことですけれども。ね、結局信心がないなら、結局そういうことになるのじゃないでしょうかね。
 親を見るとか、見らないとかといったようなものでも、兄弟でいうなら、あー、こう、尻くらいばっかりしておるといったような、ような世の中でございますけれども。本当に、私はこのみ教え、この御神誡一つでも本気で頂いたら、お徳を受けると思うですね。
 久富先生のところでも、一番下の弟が、まぁ見てきたわけですけれども、なかなかおとなしい性格の、ね、本当いうなら親方達が何人もおるから、まぁそれこそ弟が大変だろうというて、まぁ援助ぐらいせなきゃならんのだけれども、まぁ今日までそれが出来てこなかった。
 親父が死んで、ね、お父さんが死んで初めて、こりゃ本当やっぱ、親の信心のおかげじゃったぞ。俺達の、こうやって現在のおかげを頂いておる様子から思うてみても、というて、まぁ生前、親が聞いたらどんなにか喜んだであろうというような事が、死後になってそういう話合いが出来ておる、出ておるということでございますけれども。
 信心させて頂く者が、その親のおる間に、そういう安心と喜びの与えられるような、いうならば親孝行がしたいですね。ですからね、なら今申しますね、親孝行ということは、親が安心してくれることであり、喜んでくれることである。はたして、もう親は亡くなっておらんにしてもです、はたして親に対してこれだけの安心してもらえる、喜んでもらえる生き方、信心が出来ておったか。いや出来ていなかった。そんなら、いうならば御霊様に対してでもです、本気で今からでも遅くはない。もうちっと、いうならば御霊様が喜んで下さる、ね、そのことが、そのまま天地の親神様のお喜びになることですから。ね、信心の徳にならないはずはない。
 先だって、私はあの、朝の御理解に、今朝からお夢を頂いたという、おる、あのもう亡く亡くなられた、ここで熱心に信心をしておられました、(はたの?)、あの、あるおばあさんという風にお話したが、久留米の佐田のおばあちゃんのことでした。もう一週間ばかり前。
 別に、いうなら助かった御霊として、いう事はないけれども、ね、今おばあちゃんの、生前の性格からいうて、ね、ま少し、ね、皆さんも御承知のように、佐田さん達の、なら御夫婦というものは、まぁいうなら合楽の手本なような信心をしておられる。ね、それこそ目に見えておるところだけをみるならば、もうそりゃ、まぁ素晴らしい信心が出来ておられる。
 なら目にみえんところを粗末にしておられる訳はないけれども、さぁそこが凡夫ですから、ね、分かりませんけれども、御霊の世界というのは、目には見えるところではない。それで、まぁある意味での求めておられるお話をしましたが、佐田さんその、あの御理解を頂きながら、もうあれは家のおばあちゃんのことじゃろうと。思うと同時に、毎月、月の帰幽日には、夫婦で、なんかちょっとしたものでもお供えしてから、玉串をあげておらえれるのに、二月間忘れておられた。
 もう私もそれを聞いて、実際は、あの驚きましたんですけれども、はお今日はなら、あの日が丁度おばあちゃんの帰幽日にあたっとったわけです。ね、そこで、あのまぁ改めて、あの、おー、お届け、お供え、そして玉串をあげらましたが。ね、例えば親の帰幽日、帰幽日ぐらいには、まぁいうならば信心させて頂く者として当然のこととしての、私は親子、御霊の子、いうならば親孝行が出来るおかげを頂きたいですね。
 いいですか。いや家にはもうちゃんと式年式年にはきちっとしよるけんで、というだけでは親孝行をしとるというだけです。ね、ここでいうのは、親孝行がもうしとうてたまらんと。親に喜んでもらう、安心してもらうということだけに焦点を置いたら、やっぱどう、いうならばせずにはおれない。これは、まぁいうなら目には見えないけれども、御霊の世界のこと。
 ならまぁ現在親をもっておる者は、その親に対して、はたして自分の生き方が親に安心してもらえる生き方であろうか、喜んでもろうておれるだろうかと思うてみなければ、それを思わせて頂いて、それを思い抜く、頂き抜くことがです、信心だと思います。
 ただ親不孝はしとらんというのではない。これは昨日も、ある、この研修の時、他のことででしたけれども、とにかく信心はね、やっぱ頂きぬかにゃいけんという中から、あの何時かテレビであの「山田えすす?」という人と、「西郷輝彦」という歌手がおりますね。その歌手が一緒に、あのお芝居、共演をしたことがあった。ね、その時に、その「西郷輝彦」が鼓を打たなきゃならない場面があるので、本気で鼓の稽古をしたというわけである。
 それで、その「山田えすす?」がその、「西郷輝彦」のことをいっておるのに、この方のはもう抜けましたとこう、いうことを聞かせてもらったことがありますがね、やはり例えば鼓を持っとるだけじゃない、ただ打ってボンボンと音がしよるだけじゃない。その音が抜けなければ、本当のことじゃないということを、もうこの方のは、もう感心しましたもう抜けましたと言ってるんです。
 信心しとりますというなら、鼓持っとるだけのようなもんでしょう。有り難いなぁと、まぁ思うて信心を続けておるのは、ポンポンやってうっとる程度の音が出るということだけでしょう。これが抜けなければ本当のことじゃないです。その根が抜けなければ。ね、私はその抜けるところに信心の喜びがあると思うです。おかげの喜びじゃないです。信心の喜びです。ね、だから、例えばなら黙って治めるとか、あー、成り行きを尊ぶとかといったようなことをただ知ってもおるし、守ってもおるけれども、それを、あの頂きぬいて有り難いという答えの出てくるところまで、お互いが頂き抜いておるだろうかと。
 ね、私は親に孝行をするというてもです、不孝をしとらん。けれどもなら、あー、本当に親が安心してくれ、喜んでくれる。というところまで至った時に、初めて幼少の時を忘れずに、ね、親に孝行した喜んでもらったということになるのじゃないでしょうか。ね。
 今はまぁ本当に人情考えるのもすしといったような状態で、親子でも断絶があったり、ね、それこそ親を見るのに尻くらべするような子供達、人達が多い中に、ね、私はここでお参りをしてくる、初心の方に必ずいうことですけども、もう親孝行、もう本当に親に喜んでもらいたい、たまらんというような心を起こせと。もう親がおらんならば、あの、御仏壇のいうならばお掃除を早速しなさい。お花を上げなさい。お水をあげなさい。そして、本気で、一生懸命拝みなさいと。まぁ一応、初心の方には必ずそういう風に言うんです。ね。
 それがいうならば、信心の、私は基本にもなるほどしに大切なことなのですから、ね、私共がもう一遍、私共がやってきた親孝行、またこれからもしなければならない親孝行。それは、なら御霊にも繋がることですけれども、ね、本気でいうならばそれを頂き抜くという信心をね、そして、御霊も喜んでおられる。親も喜んでくれとるとこちらへ返ってくるです。ね、そこに喜びが湧くような。頂き抜く信心をね、頂いて頂きたいと思います。どうぞ。